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名言格言

名言の王国へようこそ

                            【人名検索】調べたい人名で検索できます。収録人数3971。収録語録数21867(2018年9月6日現在)

横川竟語録

横川竟語録14件
(すかいらーく創業者)


「24歳、4人の兄弟で小さな食料品店を始めた後、すかいらーくを創業。軌道に乗るまで何度も破綻の危機に追い込まれた」


「すかいらーくを4兄弟で昭和45年(1970年)に創業し、本当に辛酸をなめながらここまで育て上げてきた」


「振り返ると七転び八起きの人生だった。商売の原点は東京の台所、築地だ。奉公先の問屋で10代後半から20代初めに商売の基本をたたき込まれた」


「『商売は嘘をつくな。いいものを売れ、余分にもうけるな』だ」


「僕は小学3年生の時から地元の夕刊紙の配達をした。牛やヤギの飼育のほか、落花生の栽培も始める。堆肥を積んだムロにタネをまくと芽が早く育ち、収穫も早かった。そこで市場に出回る時期より早く出荷すると、高く売れた」


「農家のやり方を改良しただけだが、この頃からどうすれば高く売れるかを考えるようになった」


「長野県出身者はなぜか海苔事業で成功した人が多かった」


「冷蔵庫の会社で感じたのは、耐久消費財は一生モノが多く、1回売れると続かない。だから次はふんだんに消費する食べ物の仕事に就こうと決めた」


「築地での仕事はオヤジさんというべき社長に頼りにされ、充実していた。4年間在籍していたので、後に『最終学歴は築地大学』と言うようになった」


「社員が健康な時ではなく、問題が起きたり、健康を害したりする時にこそ、サポートするのが会社の役目だ」


「仕入れ金がないので、築地時代の知り合いで名門卸、岡永の御曹司を頼った。後にセコムの創業者として成功する飯田亮さんだ」


「亮さんに『手形で味噌を届けてほしい』とお願いすると、何と引き受けてくれた。その時の恩は忘れない」


「実はすかいらーくを始めるとき、店の警備保障はセコムにお任せした」


「とび職、家具屋と何でもやった」



経歴(プロフィール)
■横川竟(よこかわ・きわむ)
日本の実業家。すかいらーく創業者の一人。同社の代表取締役会長兼社長兼最高経営責任者を務めた。 きわむ元気塾会長。高倉町珈琲会長。 1937年11月1日、長野県境村に生まれた
  1. 2018/09/06(木) 07:00:30|
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阪田友道語録

阪田友道語録1件
(セーラー万年筆社長) 


「再建にあたって、私は管理職のすべてに辞表をかかせた。そうして、やる気のある、一生懸命働く気のある人だけを残すことにした。企業は人というが、人の力を爆発燃焼させる以外に企業の前進も向上もない。まず社長の自分が働かねばならない。年中休みなしの状態で働いた。セーラーは働くことが好きな人だけが残って働いた。ライバルより3割か4割はよけいに働いています。業績が回復し復配できた真因はこれしかない。企業の業績というのは人の働く時間に比例します。一日10時間働く会社と6時間働く会社を比較すると、10時間働く会社が必ず勝ちます」
注釈:業績低迷から会社を急浮上させた原因について阪田はこのように語った。後藤清一(三洋電機副社長)はこのことを高く評価している

出典『立ったら歩きなはれ』(著者:後藤清一)




■セーラー万年筆株式会社(セーラーまんねんひつ)は、文房具を中心とした製造メーカー。日本初のボールペン製造や、カートリッジ式万年筆の特許取得など、日本の筆記用具業界をリードしてきた老舗である。1911年2月に、阪田久五郎が広島県呉市に阪田製作所を創業したのがルーツ。1960年に現在の社名であるセーラー万年筆株式会社に変更
  1. 2018/08/30(木) 07:56:45|
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島岡吉郎語録

島岡吉郎語録4件
(明治大学野球部監督)


「選手より、たとえ5分でも先に来て、5分でも後に帰る。選手より遅れてくることは絶対にしない。これが管理の第1歩です」


「練習開始に監督があとからゆうゆうと来るようなことはしません。残念ながら帰りは、永いつきあいもございまして、宴会やなんかで選手より早くグランドから出なきゃならないこともございますが、前夜、どんなに遅くなっても、翌朝は選手よりたとえ5分でも早くグランドに出ています」


「朝はやく起こすことが秘訣です。早く起こすと早く寝るから夜遊びをしない。人間、早く起きるとゆとりのある生活ができる。しかし、これは大変なことでして、選手を6時に起こすには、どんなに寒い朝でも私は5時に起きなきゃならない。でも、凍るような朝でも、私は5時に起きて、ビシッと普通の服装を着てみなを起こします」


「監督の私が起きているんですから、みんないやいやでも起きてきますし、そのいやいやながらでも習慣になると、こわいもので、やがて苦にも思わず起きてくるんですよ」


※出典『立ったら歩きなはれ』(著書:後藤清一)

注釈
■後藤清一(三洋電機副社長)は著書の中で率先垂範のリーダーの例として島岡監督をとりあげている


経歴(プロフィール)
■島岡吉郎(しまおか・きちろう)
【1911年~1989年】明治大学硬式野球部監督。ラグビー部の北島忠治監督と共に、明治大学の名物監督として知られた人物。愛称は御大(島岡御大)。東京六大学リーグ戦優勝15回は、監督として歴代1位。1911年6月4日生まれ。長野県下伊那郡市田村(現・高森町)出身
  1. 2018/08/29(水) 07:38:28|
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下川浩一語録

下川浩一(経済学博士)語録7件


「日本の政治・経済体制は、戦後の諸改革によって再出発するのだが、戦後日本企業にとって、戦後改革の及ぼした影響は決定的だったといってよい」


「戦後改革の中身はいろいろあるが、それは男女の本質的平等の保障と、封建的家族制度の廃止、農地改革、労働組合の公認、といった社会改革と、財閥解体、財界パージ、経済力集中排除、独占禁止法の制定、労働基準法の制定といった経済民主化の二つの改革からなっており、両者は相互に密接な関連を有している」


「通産省が、それまでの商工省と貿易庁を統合して発足したのは、1949年5月のことである」


「戦後日本企業の発展において、近代的マネジメントの導入によって経営革新が実現されたことの意義は大きい」


「とくに、日本企業の競争力を支えている高い生産性と品質管理水準の高さを体現した日本的な生産システムや、日本企業のマーケティング能力の高さ、情況の変化にダイナミックに適応できる企業組織と戦略的決定のしくみなどは、日本企業がそれなりの独創性を発揮してつくり上げたものではあるが、その原型はむしろアメリカを中心とする近代的マネジメントの受容に端を発している」


「戦前の日本企業は、欧米の商法や会計制度、管理技法などの影響を受けたのであるが、傾向的にはドイツのそれの影響が強かった」


「労働組合を社会的に認知するという風潮は、イギリスやフランスなど欧州では古い伝統があるが、アメリカでは1930年代のニューディール政策のもとで初めて確立されたものであって、決して古くからあった話ではない」


※出典『日本の企業発展史 戦後復興から50年』


経歴(プロフィール)
■下川浩一(しもかわ・こういち)
日本の研究者。経済学博士。専攻は自動車産業論、マーケティング論。法政大学経営学部教授。1987年、中尾自動車産業史研究奨励賞。1930年、東京で生まれる。九州大学経済学部卒業。九州大学大学院博士課程修了
  1. 2018/08/24(金) 22:39:27|
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鳥養利三郎語録

鳥養利三郎語録7件
(電気工学者)


「政治、経済に関する研究所というものは、民間には一つもありません」


「わずかに満鉄(南満州鉄道株式会社)と、三菱の経済調査所が相当の資料を集めているだけで、そに以外には何もない」


「それじゃあ官立であるかというと、これも大学付属の研究所以外何もないのです。それをだれも不思議がらない」


「自然科学方面には官立の研究所が大学以外にもありますし、会社もみなやっております。ところが、政治、経済に関する方面のことは、必要があるのかないのか、いっこうそういうことは気がつかない」


「とにかく、政府も、政党も、国民もこの点には少しも意を用いていないものですからね。これをほうっておいたことが戦争に負けた原因でもあるし、戦後に混乱する原因でもあるのです」


「政治や経済はすぐ社会と接触するものであるにもかかわらず、どうも深く研究しようという人が乏しい」


「学生時代からとにかく今の世の中に流れている問題にのみ興味をもって、哲学的に、歴史的に究めていくということが乏しいのです。だから政治学とか行政学の研究が必要だということを痛感していないし、したがってそういう予算をつくらない」


※出典『松下幸之助発言集36巻(松下幸之助との対談)』


経歴(プロフィール)
■鳥養利三郎(とりがい・りさぶろう)
【1887年~1976年】日本の電気工学者。京都大学総長、京都大学名誉教授。黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮。従二位勲一等工学博士。京都市名誉市民。変圧器巻線の電位振動の研究で、英国電気学会の賞を受賞。戦後は日本の教育改革に大きな役割を果たした。日本学士院会員。文化功労者。1887年2月8日、徳島県で生まれた
  1. 2018/08/07(火) 20:49:25|
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