FC2ブログ

名言・語録・格言

名言の王国へようこそ

                            【人名検索】調べたい人名で検索できます。収録人数4003。収録語録数22107(2020年4月17日現在)

平清盛出生の謎

平清盛出生の謎



平清盛は伊勢平氏の棟梁・平忠盛(ただもり)の嫡子とされるが、白河上皇の御落胤(ごらくいん)説もある。また母親は祇園女御(ぎおんのにょうご)もしくはその妹という説があり出自は必ずしもはっきりしていない。

【御落胤説の根拠とされる源平盛衰記と仏舎利相承系図】
■源平盛衰記
「平家物語」の異本の一つ「源平盛衰記(せいすいき)」で、白河上皇が褒美として平忠盛に自分の胤を身籠っている祇園女御を下げ渡し、そして忠盛の妻となってから生まれた男子が平清盛である、と書かれているところから、御落胤説が流布したとされる。


■仏舎利相承系図
「胡宮(このみや)神社文書」の中の「仏舎利相承系図(ぶっしゃりそうじょうけいず)」にも「源平盛衰記」と似たような記述があり、祇園女御ではなく、その妹(白河上皇の胤を身籠っている)を平忠盛に下げ渡して生まれたのが平清盛となっている。そして妹が没したため、姉の祇園女御が、甥である清盛を準養子として育てたといった内容の記述がある。
 

白河上皇の御落胤説は「源平盛衰記」と「仏舎利相承系図」のなかの記述が根拠とされるが、「源平盛衰記」の史料的価値は全くないとされる。「仏舎利相承系図」の評価は専門家によって意見が分かれるようだ。


※祇園女御(ぎおんのにょうご)
祇園とは京都の八坂神社(京都市東山区)の周辺のことで、女御は天皇や上皇の身辺を世話する女性の呼び名である。白河上皇は祇園に邸宅を造り、そこに愛人を住まわせた。そして白河上皇の寵愛を得たことから、いつしか祇園女御と呼ばれるようになったとされる。

関連サイト
平清盛関連資料一覧
http://bit.ly/zfxOTL


平清盛(たいらの・きよもり)略歴
1118年~1181年(元永1年~養和1年)平安時代末期の武将・公卿・政治家。伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として伊勢産品(うぶしな、現在の三重県津市産品)で生まれる。生母は不明だが祇園女御の妹という説がある。保元、平治の乱で対立する勢力を一掃し、藤原氏に代わって政権をにぎる。太政大臣となり、娘の徳子を高倉天皇の中宮に入れ、その子供が安徳天皇となる。平氏の全盛を招き一門の繁栄をはかったが、反平氏勢力が各地で旗揚げするなか病死する。享年64歳。

父:平忠盛(たいらの・ただもり)略歴
平氏繁栄の基礎を築いた武将。父親は平正盛(まさもり)。父と共に白河上皇に仕える。父の死後、山陽・南海道の海賊をうち、朝廷に認められる。そして内裏(だいり)の「殿上(てんじょう)の間」にのぼることを許され「殿上人」となった。また、宋(中国)との私的貿易により富を蓄えたことでも知られる。


白河上皇(しらかわじょうこう)略歴
1053年~1129年(天喜元年~大治4年)第72代天皇。後三条天皇の第一皇子として生まれる。父の後をついで20歳で即位。朝廷での勢力を持っていた藤原氏の力が衰えると、子供の堀河天皇に位を譲り、白河上皇となる。幼い天皇の後見として政治を行った。上皇が自分の居場所の「後院(ごいん)」で政治を行ったことから、これを院政(いんせい)とよんだ。間もなく僧となり法皇(ほうおう)と呼ばれるようになる。堀河・鳥羽・崇徳天皇の3代、43年に渡って院政をしき政治の実権をにぎった。77歳で崩御。
スポンサーサイト



  1. 2012/01/16(月) 10:28:39|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<鈴木善幸語録 | ホーム | 川本勝語録>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://meigennooukoku.net/tb.php/394-fbd05661
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)