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池禅尼と息子達

平忠盛と池禅尼との間に生まれた子供は平家盛(いえもり)と平頼盛(よりもり)の二人


池禅尼(いけのぜんに)略歴
1104年?(長治元年)~1164年?(長寛2年)平安時代末期の女性。平忠盛の正室。平清盛の継母に当たる。後に崇徳天皇の皇子重仁親王の乳母となる。旧姓藤原宗子。父は藤原宗兼、母は藤原有信の娘。夫との間には平家盛と平頼盛をもうけた。未亡人となってからは出家して尼となり、六波羅の池殿(いけどの)という建物に住んだことから、周囲からは池禅尼(いけのぜんに)と呼ばれた。


平家盛(たいらの・いえもり)略歴
生年未詳。1149年(久安5年)没。忠盛の次男で清盛の異母弟にあたる。1148年、右馬頭・従四位下に昇る。清盛の棟梁としての地位を脅かすほどの存在であったが、1149年、鳥羽法皇に供奉して熊野におもむく途中、病により夭折した。平治の乱の際、捕まった頼朝がこの家盛に似ていたことから、池禅尼が頼朝に同情して助命を請うて、頼朝は伊豆に配流となった。


平頼盛(たいらの・よりもり)略歴
1132年(長承元年)~1186年(文治2年)忠盛の五男で清盛の異母弟にあたる。妻は八条女院の乳母の子。六波羅の池殿という建物に住んだため池の中納言などと呼ばれた。安芸守、尾張守などを歴任し、1183年、権大納言正二位に昇る。常に一門の異端者的な立場におり、治承3年のクーデターの際には他の公卿・殿上人などとともに解官された。寿永2年7月の都落ちの際には、鳥羽離宮の南門から引き返して法住寺殿に逃げ込み、法皇に助命を嘆願した。その後、頼朝を頼って鎌倉へ向かう。平治の乱の際、頼盛の母、池禅尼により助命されたことを恩に感じていた頼朝は、頼盛を大切にした。壇ノ浦直後の1185年5月に出家、その翌年に54歳で死去。


関連サイト
平清盛関連資料一覧
http://bit.ly/zfxOTL
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  1. 2012/01/07(土) 21:26:26|
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