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祇園闘乱事件

祇園闘乱事件(ぎおんとうらんじけん)概要



祇園闘乱事件は、久安3年(1147年)6月15日に祇園社の社家(神官)と平清盛の郎党が小競り合いとなり、清盛の家臣が放った矢が社家(しゃけ)、社僧(しゃそう)、さらには宝殿(ほうでん)に当たり、多数の負傷者が発生した事件。平忠盛・清盛父子の配流を求める延暦寺の強訴(ごうそ)の引き金となった。

久安3年(1147年)6月15日、祇園臨時祭の夜に平清盛は宿願の成就を祈って、田楽(でんがく)を奉納しようとした。田楽の集団には平氏の郎党が護衛として同行したが、祇園社の社家(しゃけ)に武具の携行を咎められたことから小競り合いとなった。そして清盛の家臣が、社家に向かって矢を放ってしまう。放たれた矢は、祇園社の社家、社僧(しゃそう)、さらには宝殿(ほうでん)に突き刺さり、多数の負傷者が発生した。

さすがに父の忠盛は、息子・清盛の側に落ち度があると感じて、すぐさま矢を放った者など7人を朝廷の軍事、警察機関にあたる検非違使(けびいし)へ差し出し、事態の収拾をはかろうとした。しかしそれでは相手方は矛を収めよとせず、6月26日に日吉社(ひえしゃ)(大津市)、祇園社の神輿(しんよ)を担ぎ出して入京を企て、忠盛・清盛父子を配流とするように圧力をかけてきた。古くから寺社勢力が強訴(ごうそ)を行なう場合、神社の神輿(しんよ)などを担ぎ出して朝廷などへ圧力をかけるのが常であった。なお、弾劾(だんがい)の中心勢力であったのは祇園社を支配下に置く延暦寺の僧侶とみられる。

すぐさま上皇の御所へ摂政・藤原忠通(ただみち)、内大臣・藤原頼長をはじめ公卿が召集され、いかなる処分をくだすべきか協議がなされた。過去の事例からいくと配流が妥当であるとの声が上がったが、鳥羽上皇がくだした処分の内容は流罪ではなく「銅30斤(きん)を贖(あがな)え」という罰金刑で、処分としては極めて軽いものであった。

忠盛・清盛父子の勝訴に近い判決となったが、それは鳥羽上皇が朝廷には平家の武力が絶対欠かせない存在であると思ったためとされる。


関連サイト
平清盛関連資料一覧
http://bit.ly/zfxOTL
平忠盛 遺言
http://bit.ly/IbGVCW
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  1. 2012/03/31(土) 22:42:35|
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