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名言・語録・格言

名言の王国へようこそ

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茅陽一語録

茅陽一(工学者)名言・語録4件


「一つの専門技術に集中してそこで大きな業績をあげるというより、グローバルな大きな目標に向けた総合的な仕事をただ遮二無二に進めてきた人生だった」


「父は物理が専門のせいか原子力には関心が深く、私が大学生になったころ、当時原子力に関心を寄せる代議士として有名だった中曽根康弘氏が突然自宅に父を訪ねてきたことがあった。たまたま私が応対に出たら彼が『お父上はおられるか』と尋ね、私が『はい』と答えたところ、何と低い垣根をひとまたぎにし、そのままずかずか家に入ってきて父と話しあっていたことをよく覚えている」


「学生の中でひときわ論のたつ学生がいた。彼はただ反対という形ではなく、具体的な学生側の対応案を示すなど、かなり建設的な側面があったため記憶に強く残った。紛争後数年して彼の就職した企業に学生を見学に連れていったとき、彼が企業側の案内係として先頭にたって積極的に技術を紹介してくれた。やはり前向きの行動派だったのだなとうれしい思いをしたものだ。その彼が現在の経団連会長の中西宏明氏(日立製作所会長)である」
注釈:1968年から翌年にかけての東大紛争。茅は東大の若手教官だった。中西氏は東大生の頃からリーダーシップがあったようだ


「今でも会合などでときどき彼(中西宏明)と顔をあわすが、その発言は全体の議論のまとめに有効と考えられるものが多く、若いときから指導者となる性格があったな、とあらためて感ずる」


※出典『日経新聞(私の履歴書)』


経歴(プロフィール)
■茅陽一(かや・よういち)
日本の研究者。工学者。東京大学名誉教授。地球環境産業技術研究機構理事長。日本における地球温暖化問題の第一人者である。1934年5月18日生まれ。北海道出身。東京大学工学部電気工学科卒業。東京大学大学院博士課程修了
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  1. 2018/12/09(日) 20:56:23|
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磯山友幸

磯山友幸 名言・語録9件
(経済ジャーナリスト)


「少子化の影響もあって、人手不足は深刻さを増している。東京オリンピック・パラリンピックに向けて景気が過熱すれば、さらに人手不足に拍車がかかるのは間違いない」


「企業にとっても、働き手にとっても、『働き方改革』が重要になる。今までの仕事の仕方を劇的に変えなければ長時間労働に拍車がかかり、過労死寸前まで働かざるを得なくなる」


「日本の運輸サービスは恐らく世界一利便性が高いし、小売店の営業時間は長く、飲食店のコストパフォーマンスも世界一高い」


「旅館やホテルも快適だが、価格は世界的に見ても驚くほど低価格だ。消費者にとっては何ともありがたい『価格破壊』が起きた業種である」


「こうした業界ではデフレ経済に対応するために企業努力によって価格が大きく下げられた。だが、その企業努力のしわ寄せは最終的にサービスを提供する働き手の過重労働へとつながっていった」


「『一生同じ会社で働く』ことは前提ではない」


「最も大きく変わるのが『ホワイトカラー』『会社員』と呼ばれる人たちの仕事の仕方だろう。9時に出社して18時まで同じ場所に全員が集まって働くスタイルは、19世紀以降の『工場労働』を前提とした働き方だった」


「今、それが急速な勢いで見直されている。『いつでもどこでも』働ける仕組みや、労働時間ではなく成果で評価される仕組みにシンパシーを覚える働き手が急速に増えている」


「仕事の中身自体が『決まった時間内に、決まった分量の作業をこなす』ものが激減し、よりクリエイティブな作業が増えているのだ」


※出典『2022年、「働き方」はこうなる』


経歴(プロフィール)
■磯山友幸(いそやま・ともゆき)
日本の経済ジャーナリスト。経済政策を中心に政・財・官を幅広く取材、各種メディアに執筆するほか、講演やテレビ出演、勉強会の主宰など幅広く活躍。1962年、東京で生まれる。早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞で証券部記者、同部次長、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、「日経ビジネス」副編集長・編集委員などを務める。2011年3月末で退社、独立
  1. 2018/11/20(火) 21:53:59|
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本田宗一郎語録

本田宗一郎 名言・語録30件
(ホンダ創業者)


「チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ」


「ころんでも起きなければ男がすたる」


「困ったなということがいかに多いかが、私を育ててくれた力になったと思うね」


「あやまちの理由を、絶対に他に求めてはだめだ」


「信用というものは、好かれること、約束を守ること、人に儲けさせてやることにつきる」


「私の現在が成功というのなら、私の過去の失敗がみんな土台づくりをしていることにあ
る。仕事は全部失敗の連続である」


1%の成功が現在の私である
「私はずいぶん無鉄砲に生きてきたが、やったことで成功したものはわずか1パーセントにすぎない。99パーセントは失敗の連続であった。そしてその1パーセントの成功が、現在の私である」


「未知の世界の探求というものは、私は人生最大の楽しみの一つだと思う」


「『お前はいろいろ失敗もしたが、だけど、こんな大きな仕事もしたじゃないか』といってもらえるような生き方。これが、充実した人生だと思う」


「人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか」


「人間というものは、面白いものであり、不思議なものであり、必要のない人間というのはいないのである。私が人間に好き嫌いのある人は真の指導者にはなれないと、日頃からいっているのはこうした理由によっている」


「老人経営者にとっての救いとは何か、若い人の長所を見つけ、ほめて、伸ばしてやることだと思う」


「課長、部長、社長も、包丁、盲腸、脱腸も一緒だ。要するに符丁なんだ。人間の価値とはまったくかんけいない」


「従業員は、自分の生活をエンジョイするために働きにきているはずだから、働きがいのある職場をつくらなければ、従業員は喜んで働かないし、いい仕事はしない」


「雨が降ったって、嵐がきたって大地に根を張る立派な木に育てなければならないのが、人間の教育であると思う」


「成功したその日から、次の目標に向かって前進していかなければならない。なぜなら、勝者は常に勝者でありつづけることはできないし、それ以上に気をつけるべきは、勝者の驕りだからである。組織が大きくなり、資本力が増大してくると、身動きができなくなり、自分を見失ってしまう」


「私の現在が成功というのなら、私の過去の失敗がみんな土台づくりをしていることにあ
る。仕事は全部失敗の連続である」


「苦労したときに体得したものが、世の中が変わり、大きな問題に直面したとき生かせる」


「技術の根本は礼儀なんです。相手を尊重することから、あらゆることが始まるんですよ」


「製品というものは、正直なものだ。製品にメーカーの思想も、そのまま表現されている」


「過去を大事にしてそれにつかまっているのが職人。それに新しい理論を積み重ねて、一歩一歩前進するのが技術屋です」


「どのように優れた工夫や発明でも、必要なときに提供されなければ何の価値もない」


「あんなことは、俺だってできると言っても、結局は早いもの勝ちということになる」


「創意発明は天来の奇想によるものでなく、せっぱつまった、苦しまぎれの知恵であると信じているが、能率も生活を楽しむための知恵の結晶である」


「みんなで知恵を出しあい、みんなでつくる。こうしてこそ、初めて血の通った製品ができるんだ」


「発明は恋愛と同じです。苦しいと思えば苦しい。楽しいと思えばこれほど楽しいことはありません」
注釈:昭和27年、藍綬褒章をもらい授賞式の席上で、高松宮殿下に「発明工夫というのは、随分と苦しいことでしょうね」とお言葉をかけられた時の返答


「世の中の人の中身、心といってよいか、その思想的なもの、そこまでみえなかったら、好みのものは作れもせんですよ」


「商品は人間を相手にする。買ってくれる客は人間なのである。人間の心を理解し、喜怒哀楽を理解し、不満や希望を知らなければ、大衆に受け入れられる商品を、創造し生産することはできないはずである」


仕事、本当に面白いのは仕事だけ
「このごろどうされていますか」「毎日家に居て、やることがなくて困っていますよ」「絵はいかがですか」「前ほどはおもしろくなくなっちゃった」「ゴルフは」「これも面白くない」「じゃあ何が面白いんですか」一瞬間があり「仕事、本当に面白いのは仕事だけ」
注釈:本田は66歳の若さで社長を引退した。隠居生活している本田と作家の城山三郎との会話のなかでのこと。この言葉に城山は稲妻が走るほどの衝撃を受けたという


「関東大震災に深く感謝した。なぜなら震災がなかったら、自動車の初運転、オートバイの内職、修理の技術などマスターできなかっただろうからである」 
注釈:本田は高等学校を卒業すると15歳で上京し東京の文京区本郷にあった自動車の修理屋に見習工として就職した。その時に関東大震災で被災した。それまで赤ん坊のお守や雑巾がけの仕事しかさせてもらえなかったが、一面の焼け野原をみて15人ほどいた修理工がみないなくなり、本田が 一人で仕事を受け持つことになった。震災の惨状で「感謝」とは、本田の逞しさを表す言葉である


本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)経歴
【1906年~1991年】本田技研工業創業者。静岡県磐田郡光明村(現・天竜市)生まれ。高等小学校卒業後、自動車修理工場の勤務。昭和3年浜松アート商会設立。昭和23年本田技研工業を設立して社長に就任、世界有数の自動車メーカーに育て上げた。昭和48年社長を退き取締役最高顧問。84歳で没。勲一等瑞宝章、ベルギー王冠勲章他。著書に「得手に帆をあげて」「私の手が語る」他
  1. 2018/11/14(水) 10:51:57|
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安藤百福語録

安藤百福 名言・語録32件
(日清食品創業者)


「味に国境はない」


「麺は世界の食文化を映す鏡である」


「私は『食』を自分の天職と考えている」


「食の仕事は聖職です」


「発明はひらめきから。ひらめきは執念から。執念なきものに発明はない」


「発明したと思っても、世界では同じことを考えている人が3人いる」


「一つ一つ試みては捨てていく。開発とは、これでもかこれでもかと追及する作業である」


「私は眠るときも、メモと鉛筆を枕元に用意する。あなた方も四六時中、考える習慣をつけなさい」


「転んでもただでは起きるな。そこらへんの土でもつかんで来い」


「私は一度、飢えた豚になった。そこからはい上がってきた時、『食』をつかんでいた」


「人間その気になれば、一日で一ヶ月分の仕事ができる」


「発明や発見には立派な設備や資金はいらない」


「明日になれば、今日の非常識は常識になっている」


「素人だからこそ常識を超えた発想ができる」


「開発のリーダーに必要なのは、安易に妥協しない頑固さである」


「人間は食べていかないと何もできない。空腹が満たされてはじめて、音楽や絵画や文学を楽しむことができる」


「食創為世(しょくそういせい)の四文字が浮かんだ。これを社是とする。生き物の根本である『食』の創造をし、もって世の為に尽くすのである」


「食のあり様が乱れた国は、必ず衰退する。食足世平(しょくたりてよはたいら)が私の信念である」


「私は料理のでき上がりを見れば、およその調理法は察しがつく」


「社員はもとより、社会全体がトップの姿勢を見ている。社長の座は十字架を背負っているようなものだ」


「社長とは権力ではない。責任の所在を示している」


「苦言に耳をかさない経営者は、必ず会社に危機を招く」


「真のリーダーの資格は、人としての徳を持っているかどうかだ」


「経営者にとって役に立つのは、耳障りな直言である」


「社員が目先の目標に邁進しているからこそ、社長はその一歩先を考えねばならない」


「経営者の落とし穴は賛辞の中にある。偉くなればなるほど身の回りに甘い言葉が集まり、英雄的気分にひたっていると必ずつまずく」


「少しでもよい方向がみつかれば、即刻変更したらよろしい。朝令暮改は恥ではない。柔軟さの証明である」


「即席めんの誕生には、人様に感動を与えるような決定的瞬間の場面はない。粉まみれになり、一つ一つ試しては捨てていく。忍耐のいる作業だった。文字通り、一ミリ、一センチずつ前進した結果での即席ラーメンの誕生だった」


人生に遅すぎるということはない
「即席めんの開発に成功した時、私は48歳になっていた。遅い出発とよく言われるが、人生に遅すぎるということはない。50歳でも60歳でも新しい出発はある」


「私は無一文になったとき、『失ったのは財産だけではないか、その分だけ経験が血や肉となって身についた』と考えた。すると、新たな勇気が湧いてきた」


「私は落選した代議士が好きだ。選挙区に腰を落ち着けて、市民の声を聞く。人の心の痛みが分かるようになる。今度、当選して出てきたときには、人間がひとまわり大きくなっているのが分かる」


「いつも当選している代議士は、天下国家を理屈だけで論じている。国民の本当の痛みを、ついに知ることがない」


安藤百福(あんどう・ももふく)経歴(プロフィール)
【1910年~2007年】日清食品創業者。台湾・台南県生まれ。立命館大学専門部卒。昭和23年中交総社を設立して社長に就任。このあと、信用組合理事長等を兼任。昭和33年即席ラーメンの発売を機に日清食品に社名変更。昭和56年から会長。東証一部上場。著書に「自伝・奇想天外の発想」
  1. 2018/11/14(水) 10:12:22|
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多川俊映語録

多川俊映語録9件
(大本山興福寺貫首)


「興福寺の造営は天平時代の710年(和銅3年)の平城京遷都とほぼ同時に始まった」


「発願したのは時の権力者で公卿の藤原不比等公」


「中金道は壮麗な伽藍の中核だが、戦火や落雷などの大火で7度も焼失して今回が8度目の再建。七転び八起きだ」


「42歳で貫首に就いて今は71歳。中金道の復興がずっと心の真ん中にあって、困難や課題を乗り越えてきた。落慶は感無量である」


「総工費は約60億円。各方面から支援や寄進をいただいた」


「興福寺は藤原家の氏寺で葬式はしない。入山料はいただかず、お堂の中の寺宝の拝観料が頼りだ」


「今は文化財保護のため中に入れないが、当時はお金をいただいて五重塔の最上階まで登らせていた」


「父は寡黙な人だった。少々短気で意に染まらないことがあると機嫌が悪かった。酒好きで、戦中、懇意の医師から医療用の純度100%のアルコールをもらって水で薄めて呑んだという」


「父が貫首になったのは1954年のことだ。前任の板橋良玄大僧正は戦中の1942年から戦後の大変な混乱期で、寺が最も困難な時代を乗り越えられた」



経歴(プロフィール)
■多川俊映(たがわ・しゅんえい)
日本の法相宗の僧侶で、大本山興福寺貫首・法相宗管長・帝塚山大学特別客員教授。1947年3月6日生まれ。奈良県奈良市出身。立命館大学文学部哲学科心理学専攻卒業
  1. 2018/11/03(土) 07:27:49|
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